シンボリック・アウトプット

 「シンボリック・アウトプット」とは1989年上梓の拙書(プレジデント社刊)のタイトルである。  1985年のNTT民営化等を経て、CIという言葉がやっと世間に認知されだした頃の書だ。いわゆるバブル期で、平均株価は確か3万円台。 東京の地価だけで米国全土が買えると煽られていた時代だ。 現在とは隔世の感がある。折しも、多くの「CI専門家」や「CI論」がかまびすしく世に溢れ出したころでもあった。デザインシステム論以外には何の教科書もなかった中で、多数の大型プロジェクト実務を理論的にも担ってきた者としては、 「CIの理論と本質を今整理しておかなければ・・」という自負もあったことを覚えている。確かに当時と時代は変わったが、理論的にもハウツーとしても未だに揺るぎはない。 このところ、なぜかふたたび流行り出したブランド論として読んでも、分かりやすいはずだ。  序文にも記しているように「シンボリック・アウトプット」という言葉自体は、アルビン・トフラーの有名な著書「第三の波」の中にもチラリと顔を出している。 しかし、私の使っている意味とは必ずしも一致しない。トフラーが「シンボリック・アウトプット」という言葉に与えた意味は、抽象的な記号生産一般のことであった。 高度情報化社会が生み出す新しいコンセプトやブランド、あるいはデザインや建築設計図等も含まれる広い概念だ。
 しかし、日本語の文化圏で活動する私には「シンボリック」という語が発信するニュアンスはもっと先鋭的に響く。 もっと際だった現象を特定する方が自然に感じられた。 私が意味する「シンボリック・アウトプット」とは、抽象的な記号生産の中でもより尖った部分、 つまり人の心の深いところに突き刺さる、強烈なインパクトを持つモノや事象に限って与えた言葉である。真っ白なテーブルクロスに覆われた大きなテーブルの上に、一輪の真っ赤な薔薇の花がポーンと投げあげられた時の、 あの強いインパクトのことなのである。そして何よりそれは美しくあるべきだとしたのである。

 記号生産という意味から改めて周りを見渡してみると、人間が作り出すありとあらゆるモノには、 それなりの意匠がほどこされていることに気付かされる。観光地の醜悪にしか見えない土産もの屋の店先でさえ、よくもまあ金をかけてこんなものを・・と思うモノであっても、 それなりに懸命に意匠を凝らしていることだけは確かだ。 好き嫌いや巧拙の評価を別にして、少なくとも「人に見られる」「人に見せる」ことを前提に作られたモノは全て、 少しでも「良く見られたい」という意志がその「しつらえ」に現れる。 特に一般消費者向け商品にはそれが顕著だ。 競争の激しい分野ほどその意匠は洗練されるか、よりどぎつくなる。 より「際立つ」ように工夫されていると言い換えたほうがいいかもしれない。
 それは商品だけだったり、あるいは視覚的なものだけに限らない。 触覚的な感覚や香りに工夫を凝らしたものもあれば、人の物腰、話術や文章にも現れる。 結婚式のスピーチでは、少しでも印象に残るエピソードや、意表をつく話の展開などを工夫して、 何とか出席者の心を掴むべく事前に涙ぐましい努力が繰り広げられる。 プロの司会者や落語家が聴衆から「つかみ」を取る話術は絶妙である。
 この「つかみ」こそが「シンボリック・アウトプット」の底流にある基本テーマだ。いまさら云うまでもなく、世の中に情報は溢れかえっている。 この情報洪水の中で、伝えたい内容や、新しい商品を多くの人々にしっかりと認知してもらうことは並大抵のことではない。 理解し、認めてもらうには、まずこちらの話を聴いてもらわなければならない。 しかし、縁もゆかりもない人や会社の話をわざわざ時間を割いて向こうから聴きに来てくれることなどはない。 利害がむき出しの話であればなおさらである。 話を聴いてもらうには、取りあえずこちらを振り向いてもらう必要がある。 こいつの話を聴いてみようか、と思ってもらうことが必要だ。 最初の「つかみ」は中味以前の必要機能なのである。

【図】情報過多社会

 もし興味が湧いたら人は少し近づき、試して見る。 そこで初めて自分の持つ様々な価値観の一角に位置付けるのである。 情報の送り手が求めるのはこの段階への到達だ。 そこで気に入ってもらえることが目的だ。 目立ち、際だちが目標なのではない。 まず何百とある同種の情報の洪水の中で、一頭抜きんでた感覚的な印象度を与えることから始まるということだ。 きちんと認知してもらうための受け入れ態勢を、まず受け手に準備してもらうということなのである。もちろん、とりあえず振り向いてもらったとしても、肝心の話がつまらなければそれまでのことだ。 手に取ったモノが粗悪品であったら二度とその「つかみ」に躍らされることはない。競争の激しい分野とは、情報量の多い分野でもある。 競争が激しければ激しいほど、抜きんでた注目を集める「つかみ」は難しい。 しかもそれは大多数の人に好意を持って受け入れられるものでなければならないのだ。

 さて、ここまではまあ、当たり前の話ではある。ところが、「つかみ」が「つかみ」として成り立つかどうかは、人が所属する社会や集団それぞれの「文化」に依存する。 多くの人に共通の認識がなければ成り立たない。 ここからが、難しい。赤、白、青の3色を美しく配して繰り広げられる「フランス的なもの」の象徴は、 フランス国旗の3色、トリコロールを知らない人々の前ではまるで無意味だ。 スパゲティーのパッケージに配される赤、白、緑のカラーは、そこからイタリアを想起できる者にのみ価値を持つ。 仮に、葵の紋章を全く知らない人々の前で、かの印籠を高々と掲げたとしても、 黄門様は多分あっという間に斬り殺されてしまうに違いないのである。
 つまり、シンボリックな事象が人の心をうがつには、それが何を象徴するものなのか、事前に学習済みの人々に向けられなければならない。 ワールドカップのスーパースター、ジダンがカップ麺のCFで「地団駄」を踏んでも、 彼の名前を知らない視聴者にはそのCFのどこが面白いのかさっぱり分からない。  「シンボリック・アウトプット」とは、こうして、瞬時に同じ感情や記憶を呼び覚ますこと、 あるいは多くの人がハッと息を飲む瞬間や感動を求めて先鋭化が進んだ事象を指す。多くの人というところが重要だ。 なぜなら、情報洪水のなかでこうして先鋭化が進むと、それは情報量の多い人や洗練度の進んだ一部の人の間でしか通用しなくなるからだ。 先鋭化が進めば進むほど、モチベーションや興味を共有している少数の人の間でしか同じ気分を呼び覚ますことは出来なくなる。 同じ気分を共有できるグループの母数は小さくなる一方だ。 したがって、グループの特定こそがもっとも重要である。 相手が特定の100人なのか、100万人なのかあるいは1億人なのかで、しかけの先鋭度は自ずと違ってくるわけである。明らかに1億2千万人を意識しているNHKと、CFスポンサーの顧客ターゲットに絞り込んでいる民放の番組の雰囲気は、 誰の目にもはっきりと違う。 全国民に360度、気を配って発言する官僚や政治家の話と、 特定の相手しか頭に浮かべずに発言出来るタレント達の話と、 切れ味やテンポが違うのは当たり前のことなのだ。 本当の感受性と、話そのもののキレとは別物であることが実は多い。 つまりは、誰に向かって話しをしているのか、影響を与える相手の数をどの程度想定しているかの差なのである。
 「シンボリック・アウトプット」に意味を持たせるためには、コミュニケーションを図ろうとする集団の文化、価値観、 共通する気分等に対する深い「読み」が不可欠である。 もっとも効く「つかみ」を求める調査分析はこうして、文化人類学的アプローチに必然的にたどり着くのである。 集団の風俗習慣に自ら参加し、冷静に観察する手法や、歴史をひもとき、 時代や他の文化と比較観察する手法などが極めて有効なのである。ハウツーとしての「シンボリック・アウトプット」はこうして作業手順が展開して行く。その分析の先に、そのグループにとって、人がハッとしたり、気持ちの深いところをキュンと突いたり、 あるいは瞬時に共通の感情を呼び覚ますものについての徹底した検討が控えているのである。
 その概念規定、方針規定をコンセプトと呼び、それをさらに凝縮する作業としてクリエイティブワークが開始される。手間暇かけて、練られ、凝縮されてアウトプットされたものこそを「シンボリック・アウトプット」と呼ぶのだ。 それは、最終的には、小さなアイコンだったり、一言の言葉であったり、一片の音韻であったりする。こうして、キリスト教の十字架や、菊の紋章、あるいは金日成バッジが何故強い意味を発信するのかを解き明かすことが可能となった。拙書「シンボリック・アウトプット」では、CI開発のハウツーを目指したこともあって、そこにシンボルマークやロゴ、ブランドなどの意味が配された。 デザインの圧倒的役割についても強調し、黄金比やたまごの曲線に秘められた、理屈を超えた「美しさ」の役割に紙幅を割いたのである。

【図】Symbolic Outputによるコミュニケーション

 「シンボリック・アウトプット」とは、真っ白なテーブルクロスに覆われた大きなテーブルの上に、 一輪の真っ赤な薔薇の花がポーンと投げあげられた時の、あの強いインパクトのことであり、 同時に、その役割とその創りかたについての解説書のタイトルでもある。しかし、薔薇自身には所詮薔薇以外の意味はなく、その役割と創りかたの先にこそ、その真の目的があることもまた繰り返しておきたい。