アイデンティティ

 「アイデンティティ」という概念は、抽象度が高く、誤解も多い。特に「Corporate Identity」と言うとき、その解釈は一気に拡散してしまう。日本語にぴったりはまる言葉がないせいかもしれない。「Identity」の語源は古典ラテン語の「idem」=同一人、同様のものにある。その後、後期ラテン語の「Identitas」を経て、フランス語の「identite」から英語になった古い言葉である。基本的には「同一性」「同質性」等を表すが、「所属性」や「時間的経過を経ても変わらないもの」等の抽象的な用語である。昔から、西欧の哲学の系譜で扱われてきた概念で、「神との一体化」などという表現などでも使われてきた。そして、「自分とは何者か?」という自己認識の概念が広がって以来、「アイデンティティ」は精神分析学上の用語として、 分裂症の研究等に欠かせない言葉となった。 極めて心理学的な用語なのである。

 人は自分の意志とは無関係な依存性を持って誕生する。 親を選ぶことはできないし、家族や民族、国、言語を前提とした所属文化や幼児期の学校も自ら選ぶことはできない。特に、DNA、母親に対する絶対的依存性はどうにもならないものだ。それらの依存的枠組みの中で、より良く生き延びるために、まずそれに適応することを学ぶ。親に適応し、文化に適応する。 それが、家族であれ、学校であれ、あるいは会社であれ、所属する組織文化への適応性は、人間の根源的な生存欲求に根ざしている。この依存的生命としての安定感を得られるかどうかが、後のさまざまな性格や習性、人とのつきあい方に大きな影響を及ぼす。また、人は成長にともなって、自分が自律的生命であることにも目覚めて行く。母親と自分は一体ではないことをさとり、好き嫌いの感情は人様々であることも知る。所属する文化や社会の仕組みも相対的であり、言語や宗教観のまったく違う枠組みも他にあることを学んでゆく。 自分自身の意志で、より自分らしい生き方を探ることも可能だと知るようになる。

【図】Identity

 ここで、依存的存在の自分と自律的存在の自分との葛藤がおこるのだ。どちらが心地よいのか、どちらが競争優位なのか、そしてどこまでが自由なのか・・。よりよく生き延びるためのこの葛藤こそが、アイデンティティの問題領域なのである。 精神分析学上の関心事である所以だ。
 さて、では「Corporate Identity」と言うとき、それは何を意味するのだろうか?上記の構図に置き換え、組織を擬人化してとらえることも可能であるが、話が複雑になりすぎる。 少なくとも、経営戦略の一角としてとらえるには誰にでも分かる単純化が必要だ。私は、「Corporate Identity」とは、端的に言って、組織体と社会との約束事のことだと定義づけている。組織体(企業)がこうありたいと願うことが、社会(市場)とどう共有化されているかという問題領域だと捉えているからだ。

【図】Corporate Identity

 したがって、アイデンティティ戦略と言うとき、それは、その共有化のプロセス設計と具体化活動を意味する。 組織体自身がひとつの社会であるから、その約束事の共有化プロセスはまず、その組織自体の中で設計され、具体化が計られる。自らの組織体の中で共有化が計られない約束事を、社会一般に広げて行くことなど出来ることではない。そして、経済体としての企業の場合は、よりよい経営環境の構築こそがその目標に設定される。また、VIS=Visual Identity Systemとは、 その約束事のビジュアルなシンボルとその体系的仕組みと捉える。 約束事の共有度が高ければ高いほど、強いシンボルといえる。いちいち説明しなくても、そのシンボルを見ただけで意味が分かり、 しかも浸透度の広いものこそ、コミュニケーション上の優れたシンボルといえる。

【図】Visual Identity

 デザインの善し悪しの問題ではない。 郵便の〒マークは誰でもがすぐに分かる。 トイレの男女マークや、米国国旗の浸透度はさらに国際的だ。歴史的には、共産主義の赤旗や、ナチの鉤十字マークも強烈なシンボルといえる。NTTのマークは、その認知プロセスを戦略的、構造的に操作して、一気に広めたものだ。〒マークが100年かけて築いた約束事の共有度をわずか数ヶ月で達成した。VIS=Visual Identity Systemがコーポレートアイデンティティの主要テーマとして扱われる理由はここにある。しかし、アイデンティティ戦略というとき、VISといっても、全体の戦略のほんの一部に過ぎないことは容易に理解されるはずだ。