ジェネラティビティ

 Generativity(ジェネラティビティ)とは、「次世代の価値を生み出す行為に積極的にかかわって行くこと」を意味することばである。
 エリクソン (E.H.Erikson 1902~1994)がつくった精神分析学上の造語ということもあって、 日本語にはひとことでぴったりあてはまる言葉が見つからない。 もっとも、英語でのこの用語自体、エリクソン自ら「洗練されたことばではない」と言っているから、難解なことばであることは間違いない。エリクソンは、ドイツ出身の精神分析学者で、アイデンティティ(Identity)理論の開祖といっていい。デンマーク南部(彼が生まれた時はドイツ領だった)で、ユダヤ系ドイツ人として生まれ育ち、 ナチス時代にアメリカ人の妻と米国へ移住したという数奇な経歴を持っている。エリクソン自身が、自らの出自、Identityに深く悩んだだけに、示唆に富んだ著作を多く残している。
 その代表的著作「幼児期と社会」の中で、エリクソンは人間の精神的発達を8段階に分けて鋭く考察した。 その7段階目にあたる状態を「Generativity(ジェネラティビティ)」と呼ぶ。人が成年期に入り、いよいよ子供も含めて、いろいろなものを産み出す時期にあたる。

人間の8つの発達段階

 人間の生産性や創造性を含んだ包括的な「Generativity(ジェネラティビティ)」に関心が移って行く時期としている。もともとの語源は生殖とか産み出すとかを意味する生命科学の分野にあるが、 ここでは、次の世代へ連なって産み出される新しい価値すべてを意味している。つまり、子どもやさまざまな生産物、さらに観念や芸術作品までも含む。 若干抽象度の高い言葉だが、含蓄がある。

 では人は何故産み出すのか?、何故創るのか?
 一般に、精神分析学では子供の大人への依存性のみがクローズアップされがちだ。 社会は大人が支配するもので、子供はそこへ後から参加し、順応してゆくものという構図が一般的だからだろう。しかしエリクソンは、社会は大人と子供の相互作用によってこそ成り立つ総体であると考えた。 子供自身の発達、あるいはそこに大人がどうコミットするかが、社会の大きな意味であり、社会の目的の一つであるとさえ見ている。 大人自身も子供から依存されること、言い換えれば「必要とされることを必要とする」ことに注目しなければならない。
 つまり、「Generativity(ジェネラティビティ)」とは次の世代を確立し導いて行くことへの関心そのものを意味する。 たとえ、子供を作らない人でも、地域へのボランティアや趣味のモノ創りに一生懸命力を注ぐ人もいる。 また、その関心を子孫のためではなく、モノを創ったり、芸術作品の創造のみに向ける人もいる。 しかしその本質はどちらも同じだというのが、エリクソンの唱える「Generativity(ジェネラティビティ)」の概念だ。産み出し、創り出すということは、それが何であれ、次の世代をよりよくするために関わることだというわけである。ここはそれを解説する場ではないので、是非原典を読まれることをお勧めしたい。 一度読んだことのある方でも、再読すると改めて新たな視点を得ることができるかもしれない。 私自身、10数年ぶりに読み返してみて、昨今の残虐な少年犯罪の背景などが改めてよく見える気がしたものである。いずれにせよ「Generativity(ジェネラティビティ)」とは、人間の精神的発達の過程で初めて自分中心的な発想を越えて、 自分の子供や次の世代のために積極的に役立とうとする自我の飛躍をさす言葉なのである。

何故エリクソンか

 さて、エリクソンとは縁もゆかりもない日本をベースに、しかも、一応大学で教えることはあるにせよ、 精神分析学のアカデミズムからほど遠い位置にある私がエリクソンの仕事に強く惹かれるのは、何故か?それには3つほど理由がある。

 ひとつは、エリクソンという学者個人の背景にあると思うが、彼が移民として米国へ渡り、 いわば外国語としての英語を使って思索している点にある。彼自身が述懐しているように、ある概念をひとつの言葉に置き換えるとき、傍らの辞書を必死で引きながら考えたという。そこが、仕事柄、同じように英語の辞書を引き引き考えるくせのある私にも共感を覚えるものがあるのだ。
 例えば、「Generativity(ジェネラティビティ)」という単語の選び方や、「Care= 世話」という単語を使った概念の設定の仕方などがそうだ。Care to do =したがる Care for =気遣う Take care of =気をつけるといった英語の慣用句の意味を動員したうえで「Care」という概念を「物事が壊れないように暖かく気遣う」、 むしろ「徳」という概念に近いものとして確定している。
 こういったアプローチは、ネイティブの米国人にはないスタイルだが、私などには非常に納得できる筋道である。 英語やフランス語を使ったブランドのコンセプトの設定などで、まさに我々はこのようなアプローチを日常的に使っている。 したがって、時にネイティブの米国人から、米国ではそんな意味で使うことはあり得ないと言われることがある。 しかし、云いたいコンセプトが新しくて、 既存の米国の文化的背景にも(もちろんこの場合日本にも)ぴったりはまる言葉が見つからない場合、 我々もこうやって、勝手に新しい言葉を創ってしまう。こういう態度を米国人からは、鈍感か、ないしは傲慢かのどちらかに見られることがある。 確かにネイティブの米国人にはできない技だろうし、時に後ろめたい気分になることもある。 したがって、エリクソンのアプローチに出会った時、私は非常に勇気づけられたし、気持ちが楽になったのである。

 ふたつ目はエリクソンの使う分析手法にある。 比較文化的な分析手法と、心理・歴史分析の手法である。比較文化的な分析手法(Cross-cultural analysis)とは、 種々の異なった文化を比較検討して各文化の特徴や本質を抽出する方法である。また、エリクソンがアメリカインディアン、 スー族の子どもの育てかたを研究した手法は参加観察法(Participant observation)といわれる文化人類学の手法だ。 観察するために実際に彼らと行動を共にし、すすんでその文化に参画する。 構造主義を導いたフランスの文化人類学者レビ・ストロース(Claude Levi-Strauss)等が採った研究手法である。こうやって得られたその文化の特徴を、他の対象とする文化と構造的に比較するやり方は、 私自身が企業文化を診断する時の手法と共通するものだ。 何よりもその際の直感力を大切にするアプローチに共感を覚えるのである。また、エリクソンの心理・歴史分析の手法(Psycho-historical analysis)には、 自己形成や自己実現の過程はその時代や歴史的状況と深く関わっているという認識が、その根底にある。個人の生活史を歴史的変動との交錯においてとらえようとする方法だ。 少なくとも精神分析学でこのようなアプローチをした人はそれまでいなかった。 ヒットラーや、マルティン・ルターの研究で発揮されたその手法には、大きな説得力がある。私自身は、特にアカデミックなアプローチ手法として取り入れたわけではないが、企業の行動原理を分析する際のアプローチと共通する。 個々の企業の歴史、経営史を時代的状況とクロスさせて丹念にひも解くのは 「コーポレート・アイデンティティ」にチャレンジする者にとっては必須の作業なのだ。

 そして三つ目は、「アイデンティティ」という、 本来は純粋に人間の精神と社会とのかかわりを解明するするための用語だったものを、 いとも安直に「コーポレート・アイデンティティ」などと使ってしまう、極めて思索の底の浅い業界に、実は私自身が身を置いていることによる。おそらくはフロイトの洞察を継承しつつ、マハトマ・ガンジーの指導力の意味までをもアイデンティの研究領域としたあの深いまなざしをもってすれば、 もしかしたらこんな卑小な領域からでも、人間の本質に迫る壮大な世界観にコミットできるかもしれないと思えるからだ。
 さて、「アイデンティティ」の本質的意味はおそらくは「人類に対する信頼」にある。人は、生まれると同時に母親に対する絶対的依存を自覚し、そのなかに信頼と安定を見いだすところから出発する。 やがて、母親と自分は一体ではないことを識り、みずからの好みや快や不快を自覚しなければならない。 こうやって、家族、地域、学校、文化、民族、国家等々との間で、この依存性と自立性を繰り返し自覚しながら育って行く。自分が「自律的生命」であると同時に「依存的生命」でもあるという事実を受け入れ、 親や文化や社会との折り合いを付けるプロセスこそ、 アイデンティティの葛藤プロセスそのものなのだ。 その葛藤自体を担保するものが、おそらくは人類という絶対的依存に対する信頼である。何らかの心的外傷によってその信頼が得られない時、人は自分を含めた生命に対して否定的行動をとることさえある。多くの自殺原因や、凶悪少年犯罪等が示しているとおりだ。では、その信頼はどこから来るのかといえば、これもおそらくは年長者の自我の中に蓄積されたゆるぎない確信を垣間見るときであろう。あらゆる肉体的、経済的脅威に対して自己の生活様式の威厳を守る準備ができているような人格に出会う時、私たちはある信頼と安定の規範を見る思いがする。 自分が、こういった人格と同じ人類であるという自覚を持つ時、人類とは、信頼に足る安心できるものだと感じることができるはずだ。 それは社会的地位や、実績や経済的豊かさとは別次元のものである。
 彼ら年長者は、子どもや、物や、あるいは思想や芸術作品の生産者になることに付随する勝利や失望に適応してきた人たちである。 そういう人が、自らの生き方を、そうあらねばならなかったものとして、またどうしても取り換えを許されないものとして受け入れている。 そういった自我の統合された姿に接するとき、私たちはそこに揺るぎない信頼を寄せることができるのだ。私は、「年長者たちが死を恐れないほど強い(自我の)統合を持っていれば、 健康な子どもは人生を恐れるものではない」というエリクソンの言葉ほど示唆に富んだものを知らない。

およそ25年「コーポレート・アイデンティ」に関わってきて振り返ると、日本の企業人も、 決して単なる経済活動の成功だけを目指して行動しているわけではないことがよく分かる。 むしろ、仕事という分かりやすい経済活動を通じた、いわば自我の統合への希求こそがあらゆる行動原理の源にある。 精神的利潤を求める活動と言い換えてもいいほどだ。
 したがって、所属している企業をまるで自分自身の人生と重ね合わせて見ているところがある。 それは社員の流動性の少ない日本企業独特の特性だという議論もある。 しかし、私のみるところ、転職を繰り返す人は実はもっとその意識の強い人たちである。事業の構造転換の議論をしながら、実は上司の考え方と自分の考え方との一致不一致、 あるいはそれが認められるものかどうかこそが、最大関心事なのだ。コーポレート・アイデンティティといいながら、上司を通じて感じ取る組織体と自分との一体感の距離こそが本音の関心事なのだ。企業のアイデンティティ・クライシスとはつまるところ、その距離感の取り方に失敗した極めてパーソナルな危機的状態の集合を意味する。 コーポレート・アイデンティとは、組織体の擬人的な一体性や連続性等を超えた、 構成員の自立性と依存性のバランスの問題として捉えるべきものに違いない。そして経験的にいうと、企業のアイデンティ・クライシスの克服に最も有効なものは、 社員が、リーダーの自我の中に蓄積されたゆるぎない確信を垣間見ることだ。所属する組織とその文化にたいする揺るぎない信頼を感じ取れるとき、人は強くなれる。 これまでの勝利や失望に適応してきた者が、過去と現在をそうあらねばならなかったものとして、 またどうしても取り換えを許されないものとして受け入れている姿を見るときである。 危機に際して、リーダーの毅然とした言動ほど大切なものはない。先ほどのエリクソンの言葉をあてはめれば「リーダーたちが死を恐れないほど強い自我の統合を持っていれば、 健康な社員は改革を恐れるものではない」と確信をもって言えるのである。

 一方、エリクソンはガンジーの研究の中で、彼の卓越したシンボル操作力にも触れている。 分かりやすい象徴的行為を巧みに使って人心を掌握し、 コミュニケーションを図っていると分析している。 また、フロイトの美的なものへの関心、あるいは自分を含めて精神分析家になった芸術家についても繰り返し述べている。 そこにはコーポレート・アイデンティティを、 浅薄なデザイン理論から解放し、人間を深遠から突き動かす美の力、シンボリック・アウトプットの力動の意味に対する示唆がある。 リーダーの自我の中に蓄積されたゆるぎない確信をシンボリックにアウトプットすること、 美的力動を使うことこそが、とりあえずは「手法」として重要だということができるだろう。