コミュニケーション

 スペインに滞在中、道路地図を買ったことがある。 街角の雑誌屋で売っているごく普通の小型ロードマップだ。  そのタイトルが ” Mapa de Comunicacion “だったのが非常に印象に残っている。 スペイン語では「交通路=道路」と「コミュニケーション」とが同義語なのである。その時の強い印象のせいもあって、「コミュニケーション」という語からは何となくモノの往来等、具体的に物資が交流するイメージがわく。
 一方、フランス語や英語の辞書を引くと、この単語は、同時に共通基盤とか共有財産、そして公共的な概念にもつながっている。 コミュニティやコミュニズムと同根なのである。つまり「コミュニケーション」という単語からは、等価値の物々交換、あるいは富が行き来しつつ、 やがては同質の経済共同体が形成されてゆく様子などがイメージされる。

 こういった発想には、多分アダムスミスの影響がある。 農業社会以前の生活に必要とされたモノは、もっぱらその「使用目的」によって評価されるのに対して、 分業が進んだ商業社会以降、それらはその「交換価値」の方で評価されるという見方だ。 アダムスミスは「言語」に関しても、人はまず目の前のモノに直接的名前を与え、 次にそれに似たもの全体に共通の名詞を付けるようになるとした。 やがて、より抽象的概念を交換可能にするシンボルを使いこなすようになるとしたのである。
 もちろん「コミュニケーション」の意味に関する人類の考察はもっと多彩である。 遠くは、ソクラテスとプラトンの有名な対話の発想からひもとくべきだろう。 プラトンは生き生きとした知と知との直接的インターラクションにこそ「コミュニケーション」の神髄を求めた。 簡単に借用したり、忘れれば読んで思い出すことの出来る「文字」に書き残すことすら、知の堕落とした。 生きた対話が共振する瞬間こそを「コミュニケーション」の本来の意味とした考え方は、 ルネサンスでよみがえり、ルソーを経て現代にも息づいている。 最近では、ブロードバンドによる多方向同時マスコミュニケーションが、 プラトンの理想を拡大してくれるかもしれないという考え方さえ出てきているのである。しかし、発展途上の高度情報化社会の直中にいる私には「コミュニケーション」の目的の方により関心が向く。 「コミュニケーション」という語からは、異質のものが混じり合い、やがては共通の価値観を有する共同体が形成されて行くイメージが湧いてくるからだ。 目的とする平衡点に向かって様々な価値が混じり合う動的なプロセスが見えてくるのである。

 「コミュニケーション」とは?という問いにごくすなおに答えるなら、それは「情報の伝達」あるいは「情報の交流」ということになろう。 しかしそれだけでは、実際に我々が「コミュニケーション」という言葉を媒介にして了解している内容は収まりきらない気がする。
 「コミュニケーション」とは、伝達したり交流したりすることによって、お互いの「分かり合える」という均衡点に向かう行為ではないのか。 しかも、「コミュニケーション」にはその先がある。 「分かり合える」均衡点とは、お互いの「分かってもらえた」実感への到達点だ。 「満足」の均衡である。 たとえそれが一方だけの思いこみであったとしても、「認められた」と感じることは気持ちがいい。 精神的に気持ちがいいことは何であれジェネラティビティを促進する力となる。 よりよく生きる力であり、よりよい次の世代を創ることにつながるからだ。 ではよりよいとは何か?

 人は分かり合える中にいる方が安心できる。 安心して同じ行動をとれる。 人に認めてもらえる喜びがある。 たった一人ではないという実感が湧く。 ストレスが少なく長生きができるということだろう。 そして自分の後に続く者が居るという実感は理屈を超えた生命体としての喜びである。しかし、「コミュニケーション」が一旦外界から閉ざされてしまうと、その狭い社会の中だけでよりよく生き、 よりよい次の世代を創るために、人は時に異常に濃密な価値観を生み出すことがある。 内部だけで繰り返される濃密な「コミュニケーション」が、外部とはかけ離れた異様な共同体文化を創出することがあるのだ。 濃さとは、共同体の価値観や生活様式の独自性の強さを指す。 よりよく生きるための固有の”生活文化力”とでも云うべきものだ。
 たとえば、インドの閉ざされたカースト制の中では、いわば世襲制の物乞い業が存在する。 代々、哀れをさそう術を習い、親と同じように道ばたで物乞いをして生計を立てる。 決してそれ以外の生活があるとは想像できないし、事実あり得ない。 その閉じた生活観の中では、身体的欠陥を人にさらせる方が「よりよく」生きられる。 そこで、母親はよりよく生きて貰いたいがゆえに、我が子の手首を切り落とすという。閉ざされた世界観の「コミュニケーション」環境が生む悲劇は、タリバン政権下アフガニスタンの女性達の姿が衝撃を与えたように、 いまだに世界中のあちこちに存在する。いずれも、広い世界との開かれた情報交流が均衡点に進めば解消される悲劇でもある。 手首を切らずにすむ生き方が可能であることを知れば、当然そちらを選ぶはずだ。日本にも、子供が一番楽しく過ごすべき時期に、睡眠時間を削ってまで受験用の反射神経訓練に我が子を追いやる母親がいる。 子供の手首を切る行為とオーバーラップしてみる見方にも一理ある。 日本はやはりいまだに濃密な社会であることは間違いない。

 濃い水を薄めずに守ろうとして外との水の交流を遮断すると、やがて水は澱み、腐臭を発する。「コミュニケーション」は、それを防ぐ力も持っている。 水を濃くする力と同時に、薄める力も持っているのだ。そこには社会的な意志が存在する。文化人類学者というより哲学者といってよいレヴィ・ストロースは、閉ざされた社会に人間の営みの普遍的構造を探った。どんな社会にも存在する近親相姦のタブーを、このような水の澱みを防ぐ人類の知恵と観た。 人類が他の動物と一線を画する社会文化だ。そして外婚制、つまり、娘は外の村に嫁にやらなければならないという風習を「コミュニケーション」の一つととらえた。 それは外の村からの襲撃を防ぐ融和策であり、価値の交流そのものだ。 娘は貨幣と同じ交換価値を表すシンボルの一つと理解したのである。 女性蔑視観だとして批判も受けたが、血の交流を図って社会を澱みから守る知恵は人類の文化の基底にある構造だ、 とした考えは斬新で説得力がある。
 同じ構図は各地の神話や民話からも読みとることができる。 つまり、娘が親から離れ家を出てゆく話や、息子の父殺しの話には、社会をよりよく存続させるためのメッセージが潜んでいる。 娘は外婚によってその社会を守り、息子は次の世代を発展させるために、父親を超えるべき存在であることが読みとれるという。 一見脈絡のない様々な神話や民話のストーリーを、ジグソウパズルのように組み合わせて俯瞰すると、 その社会をよりよく存続させる知恵の全体像が浮かび上がってくる。 その社会の濃さを維持するための「コミュニケーション」手段としての伝承の中に、その社会を澱ませない知恵がきちんと潜んでいるのである。

 「コミュニケーション」による価値観の伝搬は、一方的に片方の色だけに染まって行くということではない。 歴史は、一方がもう一方を完全に凌駕することなど無いことを証明してきた。 濃い方と薄い方が混じり合う場合、薄い方の影響も受けながら濃い方に近いところで均衡する。 薄い方の影響とは、納得(=満足へのステップ)という長続きする均衡点へ至るために絶対に必要なものだ。ヨーロッパや南米へのキリスト教の伝搬は、土着の宗教の様式を取り込みながら進められた。 クリスマスツリーや各地のマリア信仰等からは特にその影響が読みとれる。
 また「コミュニケーション」とは、より容易にお互いが「分かり合える環境」を整えるための営為とも云える。 次々と王朝が誕生しては移り変わっていった中国の歴史のように、 「分かり合える」ことが成り立つ同質の基盤が次々と生まれては移り変わって行く。 ここ2、30年の日本の情報環境の中でさえ、その基盤はめまぐるしく変わって来た。 基盤の変化は使用する単語の変化に現れる。つい最近まで「合理化」という言葉で分かり合っていた意味は、今「リストラ」という語に変わっている。 「ディスコ」は「クラブ」であり、「すてき」は「かわいい」だ。 「接吻」は「キッス」になり「チュー」に変わった。 単語を間違えると「ふっるーい」と云われる。
 「分かり合える」ことが成り立つ同質の基盤は、世代だけではなく所属するコミュニティにも成り立つ。 もともと地方の方言等がその典型だ。やくざの世界や芸能界にもそこだけで成り立つ言葉の世界がある。 インターネット内の様々なコミュニティーには意味不明の単語や記号があふれている。情報のコミュニティの中では、お互いが分かり合っていることを前提に「コミュニケーション」は進む。 分かり合っているから説明を省く。 以心伝心、あうんの呼吸、場の空気を読む等々が成り立つ「コミュニケーション」環境は、濃い社会の特徴でもある。 濃い社会はその基盤によって、丁寧な説明をどんどん省いても分かり合える。 こうしてその社会の構成員だけに成り立つ世界が出現する。 「よそ者」はとても入り込めるものではないのである。
 こういった観点から今の世界を改めて眺めなおしてみると、 「分かり合える」ことが成り立つ同質の基盤は同時に両極に進んでいるように見える。一つは国際的にどんどん社会が開かれて行く方向である。 同質の基盤が先進国を網羅し、さらに世界のすみずみにまで浸透しつつある。 経済のグローバルな一体化やインターネットの普及とともに、そこでの共通言語基盤は「英語」に集約されつつあると云っていい。 ただし、ここでも歴史は、一方がもう一方を完全に凌駕することなど無いことを証明しつつある。 「英語」自身が世界語として猛烈な勢いで変質してきているからだ。「英語」がすでに英国ローカルの言語からはるかに離れてしまって久しい。 さらにインターネット上の「E-mail語」としての「英語」は独自の様式を生み出しつつある。 「E-mail語」のルーツは「英語」である、と云われる時期はそう遠い先の話では無いかもしれない。 いずれにしろ、ここでは米国文化の浸透が大きい。 グローバルスタンダードとは米国流のいわばデファクトスタンダードにすぎないという批判も、今や一般的だ。 しかし、批判はどうあれ、グローバルに「分かり合える」同質の基盤はますます進展するに違いない。同時に進行しているもう一方の基盤の変化は、閉じた社会への志向である。 多数の閉じた系の出現と言い換えてもいいかもしれない。

 インターネット上の様々なコミュニティや地域通貨(その地域の有志の間のみで流通する通貨)などの登場が象徴的である。 フランスの大統領選挙で衝撃を与えたルペンの強烈な民族主義や、ウサマ・ビン・ラディンの原理主義の底流にも共通する志向だ。 開放系への生理的な抵抗感は、単なる米国スタンダードへの嫌悪だけではない。 居心地のいい自分たちだけの基盤を守りたいという意志は強い結束と共感を呼ぶ。 永田町や霞ヶ関に跋扈する「抵抗勢力」の本音もここにある。しかし、閉じた濃い社会へ向かう働きと、開いて薄めようとする働きの同時進行は「コミュニケーション」の本質的働きであることを忘れてはならない。 いくらグローバルな基盤だとしても、もしそれが単なる米国文化スタンダードにすぎないとしたら、それ自身が閉じた濃い系への指向を意味してしまう。 閉じているか開いているかは規模の大小の問題ではないのだ。 一極集中を避ける原理こそ「コミュニケーション」の本質的働きなのである。
 人は、あうんの呼吸が通じる閉じた社会の方が居心地がいいに違いない。 しかし、その閉じた濃い社会は放っておくとやがて澱み、退化してしまうことも知っている。 結局は新たな地平へ向かって開いて行かざるを得ないという洞察もまた人間の知恵なのである。アイデンティティをめぐる諸問題も、大ざっぱに云ってしまえば、 閉じた世界観と開放系世界観との葛藤の中に発生するといえるだろう。
 繰り返すが、「コミュニケーション」には閉じる力と開く力の両方の働きがもともと含まれている。 なぜそういった働きが生まれるかといえば、 「コミュニケーション」には「ジェネラティビティ」に向かう人類の知恵が潜んでいるからだ。 恐れずに異質さを取り入れ、それと均衡する満足を相手に与えることこそが、停滞を超えて次世代に新しい価値をもたらすことを可能にする。 「ジェネラティビティ論」を理解するための用語としての「コミュニケーション」はこういった意味でとらえておくべきだ。

 さて、「コミュニケーション」をさらに深く解説するには、人間の認知のメカニズムに関する分野、 つまり脳や神経そして心の在りか等の考察は欠かせまい。 さらに伝達の方法論としてのデザイン・絵画・音楽・演劇・舞踏等の意味にも触れざるを得ないだろう。 文学的には想像力の自由を叫び続けた詩人ボードレールの「コミュニケーション」観も無視できない。 もしかしたら読者の関心は広報戦略や、テレビ、携帯電話、あるいはインターネット等のメデイァの意味の方にあるのかもしれない。 しかしそれらの考察は別項にゆずることにする。ここでは、とりあえず、よりよい次世代を創るための積極的価値交流が「コミュニケーション」の意味であることをおさえておきたい。